一柳の感想文、反省文、ポエム

感想文、反省文、ポエムを書きます。

映画『スタンド・バイ・ミー』を久しぶりに見た

この映画を見たのは、僕が小学校の高学年生だったころと思う。

金曜ロードショーとか、日曜洋画劇場とか、そのテのテレビ番組として見たんだった。

当時、初代ポケモンが流行っていて、だから小学生たちがこの映画に寄せる関心も高かった。

「明日、テレビでスタンド・バイ・ミーがやるらしいよ」

「なんだそれ」

ポケモンで自分の家のテレビをつけると、男の子が4人、線路の上を歩いているってでるじゃん。あれの元ネタらしい」

「おお、じゃあ見るかー」

そんな感じの会話をした記憶がある。

さて、少年一柳はこの映画をどうみたかというと、さすがはアホ真っ盛りの小学生男児。何の感慨もなくポケーっと見ただけだった。死体さがしの旅に出るということや、耳を焼かれた少年が出てきたこととかは覚えていたけど、細部はほとんど覚えていなかった。

 

月日は流れ、ふとスタンド・バイ・ミーのことを思い出し、疑問がわいた。

「あれ、あの映画、なんで主人公のモヤシ少年は、不良と一緒にいたんだっけか?」

モヤシ系の少年は普通、不良と同じグループには居ない。なのになぜ一緒にいたのか。急にわからなくなった。小学生のときには全然疑問に思わなかったが、思い返してみると、気になってしょうがない。

そういえばこんな話をネットで目にしたことがある。

ドラえもんの映画を見て泣くのは中年である。子どもは泣かない。ドラえもんと一緒に冒険しているから。ドラえもんと一緒に冒険できなくなった中年が泣くのだ。

少年一柳にとって、モヤシと不良が一緒にいるのがあまりにも自然で、疑問にすら思わなかったのか。グループが……と気にするのはある程度歳がいってからのものかもしれない。むしろこの疑問を持った時こそ、ドラえもんと一緒に冒険ができなくなった中年の始まりだったのかもしれない。

いや、ただアホの子だったからちゃんと見てなかっただけだろ。そんな気もする。

 

いずれにせよ、また見直したい。最初に映画を見てから20年弱、DVDを大量購入する機会があったので、見てみた。(といっても、このブログ記事を描く一年前に見ただけだが)

 

ぼんやり残っている記憶や、周りの人がこの映画についての語りから受けるイメージとは全然違った映画に感じた。

 

50年代のアメリカの田舎が美しく描かれていて、ノスタルジーを喚起するなんて言う人もいるけど、僕にはそうは見えなかった。

この映画が描いているのは、文学に傾倒するようなモヤシ少年が隙を見せたら窒息しそうな田舎の息苦しさだったように受け取った。

主人公の少年は小説を書くことに夢中だ。しかし、アメフトをやっている人が偉い―現代日本でいうマイルドヤンキーみたいな空気の中にあっては、少年の居場所は少ない。小説を、両親ですら理解してくれず、両親は大学に行ってアメフトの花形選手をやってる主人公の兄ばかり気にかけるのであった。

逃げ場のない田舎町でただ唯一、小説を理解してくれていたのは、兄だった。兄は自分を可愛がり、この前の小説はよかった、良い小説家になるとずっと言ってくれていた。

その兄が死ぬあたりで物語が始まる。

町の人は「お兄さんのことは気の毒だったね。ところで中学に行ったらアメフトをやるのかい?」などと聞いてくる。それも無邪気だ。

兄が死んだあと、少年は不良グループの子たちと仲良くする。波長があうところがあったのか。

物語が後半に差し掛かるころにそれがわかる。ガキ大将のクリスとの会話だ。

中学に入ったら、進学コースに行くか就職コースに行くかどうしようかという話になる。ガキ大将は就職コースに行くという。ガキ大将はどうやら勉強はできるものの、内申(?)が悪いらしい。給食費を盗んだ濡れ衣を担任の先生に着せられ、またDQN家庭出身だからしょうがないと、周りからも相手にされなかったという。そしてガキ大将は主人公に、お前は大学に行け、小説家になれと言う。こんな田舎に居ちゃだめだ、抜け出そうと。

兄を失ってつらい時期に、小説を評価してくれる人がまた現れたのだ。ガキ大将の応援があって、主人公は大学を目指し、小説家になれた。死体さがしの旅を終えた帰り道、街が小さく感じたと主人公はつぶやく。田舎の外に触れられたような気がした旅だったからだろう。

この物語の最後は、大人になった主人公が小説を書いているシーンで終わる。あのころのような友達はもう二度とできないだろうと書いて、小説を締めくくる。

田舎を飛び出す支えになったのは、この旅とガキ大将だったし、それは主人公の中では大きいウェイトを占めるものだったのだろう。

 

スタンド・バイ・ミー、単純な田舎のノスタルジーを煽るものではなかった。閉塞感、青春を描いた、名作と呼ばれるにふさわしい映画だったのだろう。

 

余談)「空想地図」でおなじみの地理人さんが、ジブリ映画の『耳をすませば』について、あの郊外では小説を評価してくれる人がそんなピンポイントで現れず、雫の熱意も続かず、高校生ぐらいで小説家も諦めるだろうと言ってたことがあって、笑った。スタンド・バイ・ミーの主人公みたいな子も、そうやってダメになる方が圧倒的に多かったんだろうけど。