一柳の感想文、反省文、ポエム

感想文、反省文、ポエムを書きます。

海を見たことがない人を見た

「陸と海、どっちが温まりやすくて冷めやすい?
そうだね、陸だね。海に行ったときなんかにわかると思うんだけど、裸足で地面はつらいよね。海に入っちゃえばそんなに暑くないでしょ。そう。水の方が温まりにくくて冷めにくいんだね」

だいたいほとんどの日本のこどもたちは、冒頭にあげたような話を、「学校」と呼ばれる場所で四回ぐらい聞かされるかと思います。小中学校の理科の時間や社会の自然地理分野の授業で、です。切り口や出てくるコトバとしてはちょっとずつ違っていて、あるときは季節風の説明だったり、またあるときは陸風や海風だったりするのだけれど、年単位か一日単位かは別として比熱や上昇気流などによって風の向きが変わるという基本は同じです。

中学二年生に理科を聞かれると、僕もまた冒頭にあげたような話をするのだけれど、それでもなかなかできるようにならない子もいます。

ある、貧しい家のこどもがいました。彼は勉強ができなくて、あまり洗練されてない僕の説明がなかなか入らないようでした。夏休み明けに彼と話したときに、僕は何の気なしに、夏休みどこに行ったか聞きました。彼は隣町のプールだと答えました。一番遠いところでは、と聞いても、そこだと言います。

この子はどれくらい海にいったことがあるのだろう。家族で海水浴なんて経験はもしかしたら一回もないのかな。そんな子に海水浴の経験をもとに話を組み立てようとする僕は、端的に言って愚かでしょう。

僕が小学生のころ、日曜日の朝にNHKの『小さな旅』をよく見ていました。視聴者の旅の思い出の投稿をもとに、その旅の風景を映す番組です。ナレーションと風景だけで番組が進行していくのですが、小学生の僕にはやはり退屈で、見ることを慣習にしている割には全部見きったことはほとんどありませんでした。
(いま、ウィキペディアで調べたところ、小さな旅が必ずしも投稿をもとに番組をつくるわけではないそうです。手紙シリーズというのがあって、僕が見たのはそのシリーズかもしれない)

ひとつだけよく覚えている話があって、たぶん最後まで見たのだと思うのだけど、山梨かどこかの高齢の女性の投稿でした。覚えていると言っているのにあやふやなのは、ナレーションがよく理解できていなかったのと、風景などから作られるイメージが強烈で、いくらか自分の頭で作ってしまっている部分があるということですが。

投稿者が母との旅の回想をするお話でした。母が海を見たことがないというので、自分の生活にも余裕が出てきたのもあって、連れていったというだけの話です。
はるばる電車を乗り継いで、海までたどり着き、母は始めて海を見て
「うん、もういい」
としみじみ言った、という、ほんのそれだけの話でした。

幼いながらに僕は
「海を見て、何か満足そうに、でもなにか物足りなそうにしているけど、どういう気持ちなのかさっぱりわからない」
という風にも思ったのですが、
「この話がどれだけ昔のことかわからないが、まだ海を見たことの無いような人が、この日本にもいるんだろうな」
とも思ったものです。「貧困」なんて言葉は知らなかったけど、何かこう、海を見に行くだけの余裕がない人もいるのではないかという感触が、淡々としたナレーションから伝わってきたのです。

あれから20年以上たったのだけれど、海を全く見たことの無い人って、あのころと比べて減ったのだろうか。学校の移動教室などで、海をみる機会だけはある程度保障されているのだと思うけど。それでも1000人に1人ぐらいは、見たことがないかもしれないとか疑ってしまう。

この記事を書いている途中に、子どもを連れて旅行に行くなら新幹線のこの席に座るのがいいといった、意識が高い雑誌の記事がツイッターのタイムラインを流れてきました。学力格差の前に、激しい生活格差があるんですよね。

こういう状況でも、学習機会保障や学習支援の重要性が叫ばれたりしているわけでして。生活の格差に手をつけづらいから、学習に資源を投入するしかないのでしょうが、それにしても街灯の下で落し物を探しているような切ない気持ちになります。

ちょっと前に東京新聞に面白い記事が載っていました。首都大の阿部彩さんが、相対的剥奪の話を書いていました。経済的な理由で海水浴に行けなかった子どもがどれぐらいいるかなど、貧困などで、どういった体験の機会を得られていない子どもがいるかというような議論です。

もちろんこれがすぐに「すべての子どもが海水浴にいけるべきだ」とはならないのですが、すくなくとも、20年前のあのテレビ番組より、社会が豊かになっててほしいなぁ、経済的な事情で海を見たことのない子どもがいないでほしいなぁ、と思うわけです。