須崎先生は無能
か?
マンガ『みいちゃんと山田さん』、通称「みい山」がアニメ化されることを受けて、みい山の功と罪、益と害の部分がにわかに議論されている。一柳はみい山をしっかりと読んでいないが、今のところの見解としては
みい山のマンガが障害者差別を煽ってきたり偏見をふりまいてきたりしたことは否めない。しかし、それだけでアニメ化が否定されるべきものでもない。ただ、能動的に購入しないと読めないマンガと違い、地上波で放送される以上はもう少し厳しい基準が敷かれても仕方ない。フルメタル・パニックだって、原作では北朝鮮が舞台のシーンがアニメ版では架空の国になったように、マンガよりも多くの人に簡単にアクセスされる以上は描き方を変えなくてはならない部分はある。
くらいのものである。マンガを読んでいないか、読んでいてもそれほど思い入れのない人も、たぶんこれくらいの感想でおしまいであり、議論に参加しようとは思わないだろう。
そんな俺でも、議論に参加したくなったというか、ひとこと言わずにはいられなかったテーマがある。須崎先生は無能かどうか、須崎先生から特別支援教育に関する学びが得られるか、というところである。
みいちゃんが小学校3年生のときに、みいちゃんの母親は担任の須崎先生から特別支援学級への転籍を勧められる。担任の須崎先生は若手のようであり、母親に話が通じないとわかると、祖母に家庭訪問をしかけ、熱心に特別支援学級に移ることを提案する。
学校現場や特別支援教育に詳しくない人は、このシーンを読んで以下のような感想を持つだろうか。
みいちゃんを受け持ったものの、教育を諦め、ただ一年間やり過ごす先生は多いだろう。しかし須崎先生は反発を恐れず、みいちゃんに必要なことを、勇気を持って保護者に告げた。立派な先生だ。
作者の亜月ねね氏もそれくらいのことを考えて描いたようだ。単行本3巻に収録された児童精神科医・学者の宮口幸治氏との対談においても、「真似すべきモデルという意味では、須崎先生は『良き大人』になれそうだと思ったのですが……。」と発言している。ところがというか、やっぱりというか、宮口氏からも、ツイッターランドの特別支援関係の人たちからも、批判を受けている。
――障害の告知はセンシティブなのに、雑すぎた、性急すぎた。たった3コマで検査や転籍の話を出した。
――保護者との関係を十分に構築できていないのに障害告知をした。日ごろから学級の様子を細かく共有しておくべきだった。
――家庭訪問までして、保護者に「適切な支援を受けさせない方が恥ずかしい」と追い詰め、保護者の退路を完全に断った。
一柳も特別支援教育に多少関わったので、このような批判にはだいたい同意する。俺が須崎先生と同じ学校に勤務していたら、須崎先生に似たようなことを言ったかもしれない。
自分が見た、巻き込まれた例でもこんなことがあった。以下は長い自慢なので、読み飛ばしてもらって構わない。
若手の教員が、面談で保護者に対しいきなり、児童には発達障害の可能性があると発言する。その教員は保護者がどう感じるだろうかと、機微がわからない。そして障害等に特別詳しいわけでもない。自信満々に言われて不安になった保護者が俺に相談に来る。こういうのは一柳先生に聞くのがいいと言われたとかなんとか言って。ママ友でうわさされてんのか?
急にボールが来たもので、仕方なく、俺もうまいことやろうとするわけだ。まず、保護者の話を、そりゃあもう上手に聞くわけだ。こちらからは学校の普段の様子を話したり、きょうだいと比較してわかることを並べたりして、よく見てますよアピール、客観的に判断できますよアピールをする。そしてその合間にその子の気がかりな点をところどころ刺す。その間にその子がいつ、どこでどういった制度等につながったらいいかを考え、「もし気になるようなら、こうなったらこういうことをした方がいいですよ。それまでは様子見で大丈夫ですよ」などといったり、「スクールカウンセラーに様子を見てもらいましょう」などと提案したりしていく。見通しがつくと保護者も安心するだろう。
一通り相談が終わったら、その担任へ苦情を言いに行く。自分からいうのも変なので、管理職(学校では上司のことを管理職と呼ぶ慣例があるのだ)からこういうことがあったから、障害や検査の話は単独でしないで学年主任や特別支援学級の担任やスクールカウンセラーと相談してから複数人で行うとか、普段から十分に事実を記録して積み重ねておくとか、保護者の不安に寄り添い、話し方に気をつけるとか、そういう基本的なことを指導してもらうように依頼する。ついでに管理職の担任配置やこれまでの対応が甘かったからこういうことになったと刺すことも忘れない。
信長の野望とか太閤立志伝であれば、俺には確実に「弁舌」特技がつくだろう。ヘラヘラとそういう技能だけで仕事している振りをしてきた。
障害について詳しい無能教員というのもいた。保護者が「私はアダルトチルドレンで……」みたいなことを言い出したら「アダルトチルドレンという障害はない」と冷たく突き放したり。いや、そこ、刺すところじゃねえから。「自分の育ってきた環境につらいことがあったから、子育ても不安になりますよねぇ」などとうまいこというところじゃんかよー。あ、こういう対応ばかりしているからママ友でうわさになんのか。
以上、自慢。
だから俺にも、こういう直情ぶっこみバカがいることのつらさとか大変さとかがすごくよくわかるわけだ。
それでも、須崎先生を無能と断じたくない気持ちも一方である。
その要因の1つにはマンガとしての制約がある。3コマで障害や検査の話をまとめようとしたというが、それはマンガの限られたページ数で表現しようとしたらそういうことにもなってしまうだろう。最近のワンピースのように、回想だけで何十ページ、何十話も使えるなら話は別だが。作者としてもどれだけ話数が使えるかわからなかったであろうから、短くコンパクトにまとめられてしまうのも仕方ない部分がある。
2つには時代の制約がある。マンガの舞台が今から10年以上前で、さらに主人公の幼少期の話であるので、現実にすると2000年前後ということになろうか。スクールカウンセラーの配置状況もわからない(東京都の小学校でもスクールカウンセラー全校配置がなされたのは2008年)し、そもそも職員室にさほど障害についての理解があるように思えない。去年の担任はみいちゃんをイジり倒していた。そういう時代・職場環境でも、何とか保護者に対応を考えてもらおうと面談や家庭訪問をしたというのは、やはり立派なことではあると思うのだ。職員室では「猫の首に鈴をつける」という言葉もよく使われる。保護者の機嫌を損ねてまで何かをしてもらおうと思う教員も多くはない。「様子見」「保護者の意思を尊重して」などと言って、歴代の担任陣がやり過ごしていった結果、9年間放置される児童生徒も珍しいものではない。
というわけで、そういうことを考慮に入れると須崎先生は無能だと言いたくないのだ。
もちろんページ数の制約もなく、世間や教員からも障害の理解が進み、現代を生きる我々は、須崎先生の真似をしてはいけない。保護者と信頼関係を形成し、保護者の精神的負担を配慮して伝え方を工夫し、うまいことやらないといけない
のだろうか。
そういうことを考慮に入れなくても須崎先生のやり方はダメなのだろうか。
俺が保護者に配慮をするのは、それが結局児童生徒の利益にかなうからだ。保護者がヘソを曲げると面倒くさいことになって、まわりまわって子供に悪影響が及ぶからだ。そうでなければ、こんなことしたくない。
障害の可能性を告げられてショックを受けるのは保護者の問題であって、学校の問題でも児童生徒の問題でもないのではないだろうか。
ヘソを曲げて学校やほかの支援機関とのつながりを切ったのは母や祖母の責任なのではないだろうか。
支援学級の選択肢を検討しない・できないのは母や祖母の無作為の教育虐待とでも呼べるのではないだろうか。
支援者やら専門家やらが主張していることは、児童生徒の利益よりも保護者の利益を上においてあるクソみたいな前提をなぞっているだけではないだろうか。
保護者を完全無視できるようにしてほしいとまでは、本当のところ思っていない(他人からちやほやされるのが好きなので、うまく取り繕おうとする自分のことがめちゃくちゃ好きだ)が、みい山論争は、保護者の意思至上主義みたいなものにちょっと反発したくなる気持ちをよみがえらせてくれたのだ。
ついでに言うと、みい山が名作なのは、タイトルの通りみいちゃんと山田さんの対比にある。作者の分身であるところの山田さんは、毒親から、支配とも呼べるようなガチガチの教育虐待を受けてきた。みいちゃんが受けてきたのが無作為の教育虐待なら、山田さんが受けてきたのは作為の教育虐待とでも呼べるかもしれない。作者が須崎先生を有能だと思ったのは、保護者の意思よりも児童生徒にとって必要なことの方を上に置いたからではないだろうか。須崎先生みたいな、保護者とケンカしてくれる教員が欲しかったのではないだろうか。山田さんの方も、みいちゃんと接することで解放されたり育ち直しをしたりして救われているところがあるはずで、だから山田さんはみいちゃんのことが気になって、構ってしまうところもあったはず。山田さんがみいちゃんに毒親のようにふるまおうとしたところはゾクゾクしたし、露悪路線じゃなくて、そういう路線で何か作者の救いが描けたんじゃないか。
ってうちの妻が言ってた。うちの妻、みい山、めっちゃ読んでた。